昭和四十七年三月二十三日 春季霊祭 
                        加藤恵美子



神恩~しませんでしたけれども~えもう本当に?わからない人生がたくさん、云うならば合楽の信心にいうならばすがつて見えられましてもね、思うた物事が出来なければどうも仕方がない、力がなからなければね、もう本当に、あの力が欲しいな~とね、そこで皆さん合楽では、その力を受ける事の為に、もう朝から晩まで私はあの皆さんにー生懸命お話しを聞いて頂いているわけですね、昨日、一昨日の御理解ではございませんでしたけれども昨日、一昨日ですかね、朝のお礼さしてもらう、ちょつと前に頂いたお夢がね、3をとんお、合わせたら、幾つになるか、皆さんすぐ計算されるでしょうが3を10を集めたら、幾つになるか、ちょつと考えてから、わからんのちゅうて、ああ30になります、といつたような計算を、しようと思うて、いないんですね、そんなら3の3ば20合わせると、幾つになるの、もうぜんぜん、もう、ややかしかごたるふうで、、もう計算するちゅう思うてない、それで私が卓を叩いてですね、この位の事も分からんかと言つて、言つてるとこなんですね、3を、とんお集めりゃ30になる、それこそ幼稚園の子供でも分かるね 、3を20集めてもう小学校の一年生ならたいがいの者は計算が出けるね、3を10集めて30になるならね、3の倍すれば20集めたことになるから答えは60になろうがとこう言つておるね、こうすりゃおかげになる、こうしてこうすりゃお徳になるという話ばかりなんですね、合楽では、おかげを頂きたいと言うても、こうすりゃおかげになると言うても、おかげならんのよね、それでも、おかげだけではいけん本当にもう信心によつて、お徳をうけんといけんと思うからね、少し信心が分かりだしたらね、なら、こうしてこうすれば、お徳が受けられる力が受けられる、そのお徳なしには人間の真の幸せはない、あの世にもつて行くものは何もないぞと、まあ言うておつてもですね、こうすりゃおかげになる、こうしてこうすりゃお徳になる、力になると教えても、それをもう、みんなが計算しようとも思わないね、計算すると云うことは、どういうことかというとね、こうすりゃおかげになると云う道を踏むだけのことよ、ならそれに、こうしてこうなりゃお徳になると云うことを分からしてもらうからね、お徳になる、そのことは聞かずに、そのことは実行せずしてね、おかげは欲しいと言いよるとは、そりゃ本当におかげを欲しいと言いよるとではない、お徳が欲しいと言い寄る、そりゃ本当にお徳が欲しいといいよるとではない、思いよるだけの事、欲しいならやはり、そうしなければならない、もう本当にその為にですたい、ほんなら、こうやつてー生懸命ね、もう本当にもちつと何とか言葉ほど不思議なものはないな、私が頂いてた、私が実感しておる事を皆にどういうふうに表現したら皆がわかつて、それを実行されるだろうかと、思うて苦心をするね、けれども分からない、結局はわからんのじゃない、わからせきらんのだ、力がないからだと思わなければおられないのですね、もう本当に、やつぱり、その力がないというか、それが聞くと云うか、せにゃんですね、もう霊様なんか、あつかいは出来るものじゃないないですよ、言う事は聞きゃせんです、力の無いものが言うたつちゃ。
いつも霊様のお祭りの時に、いつもあの玉串がどうもスムーズでないから、どうもいつも東さん、貴方がいつちょん気がきかんけんでえと私は思いよつた、といつも言いよつたいつもまちつとスムースにいく工夫はなかのち、そんな時に高橋さんが色々と、どなたを先にして、どうしたらいいかと朝、聞きに見えましたからね、ハアこんだ、あげな気のきいた方がされるけんスムースに行くだろうと思うたところが、いつちょんスムースにいかん、ねえ、ちょつと、祖先讃詞の上がる前に、ねえ、例えば、いつも際員の御用を受けられる方が上げてねえ、そして大坪家の人たちが上げたら後は新しい御霊様をあの世に送られた方達が上げられてねえ、誰だれさん、誰だれさん、でございなすから、上げてください、後はどうぞ教徒信徒の順にもれなく、みんなたくさん玉串を用意してございますから上げて下さいとあたしは放送があるもんだ、言われるもんだと、そして玉串を配られるもんだと思うとつた、所がどつこいない、ねえ、秋永先生が立つてから、どうぞ玉串を皆さん上げて下さいと、たらもう、ああ玉串は上げんでよかという顔をしとつたら、みんなよう上げる、これはもう不思議なことですよ、押さえが聞くもんが言わなければダメです、もうこれは善導寺でもそうですがね、淵上先生が、岸先生が立ち上がつて言いますと皆が動きますけど、ほかのもんが言うても動かん、それだけの力が無いからねえ、秋永先生がもう自分の跡継ぎ、誰かが出来るから、けども、ちつともやもやするから、こうちつと言い寄ると皆が立ち上つて行かれる、やはり力がなからにゃダメ、霊様でん同じこつ、昨夜なんかも、しきりにそれを感じさせて頂いたね、御霊様を例えばスムースにさばく、それが助かりだと言う、ねから、本当にその助けてあげたいけれども力がなからなければ助からんのですから。皆さんにも分かつて貰いたいと思うてもです、どんなに私がここで汗水たらして話してもです、私に矢張り力がなからなければ、皆さんがそれを実行もなさらなければ、だから結局、煎じ詰めていきよると、私が力が無いから、本当に力がほしい、力がほしいと、もうこりゃ本当に思います丁度、お金で貧乏してた時に、お金がほしい、お金がほしい、ここに、いくらあつたら、どこに、あんな事、言われんですむのに、ここに、いくらあつたら、あれを買うて子供にでも与えられるのにと思うくらいにです、その実感で??私は力が欲しいと思います、皆さんね合楽ではその力がほしいと言う所に、あのおかげを、焦点をおかないと、信心は絶体に進みません、いつも不安で焦燥でそれこそ、御霊様と同じこと、迷うた日々迷うてばかりおらんならんね、不安で不安で堪らないね、そういう不安でない安心、いや安心どころかそういう喜びが頂かれる、という生活をさして頂くと言うことが信心なんですね、本当に自分に力が無いからと思うてもぐずぐずしよると、こちらが?つてくる、イライラする、どうしてわからんじゃろうかと、私がお説教台の前に立つたら、お水がいること分かつてるじゃない、ちゃんと、あすこに座つてから、ほけんごとしてござるから、修業生、お説教前に、あげんこといわにゃもんやから、心穏やかでない、さあ下がつて私が足を拭いて着物を着替えにやんこつわかつてるとに、仕事の仕事のというて、いつちょんこらつしゃれん、本当にバカじゃなかじゃろうかと、私は思う。
もうそれこそ私の動く所に修業生さんが 、おらさらなければ陰と日向のようにして今日のような時には、おつてもらわなければ、私の御用に、もう差し支えるとです、だから結局それとても私にもちつと力があつたらなと、こう思うわけです、思うけれども矢張り心の中で、穏やかかというと穏やかではないから、ほんならば、さあお話しさして頂こうかと思うても、どげなお話しさして頂いたらいいかと、わからんように心が乱れてくる、不思議なことですよ私が有り難いと思うとかないと有り難いお話しは絶体出来ません、なしかちいうと、今日は霊様のこげんとこ話そうと思うとるとじゃないですからね、御神前に出て有り難いなあーと感じた事からお話しをするとです。きょうはもうもやもやするなーと思うと、もやもやする話が出てきよるね、それで皆さんに、もやもやし寄るけれども、こりゃ私に力が無いからだけれどもです、そんなら親に力が無いなら子供がいつちょ力を分けて、それこそ親と子であいよかけよで、よそで、とんを出来る所を、うちでは子供と親とが5つずつしていきゃとんお出来る様にです、私はそういうね、あの、おかげを頂かして行かなければいけないと思う、表で使わして頂く2~30分前でした、丁度そこの十字路の所で椛目の内田さんが、あのそれこそ目に涙を溜めてから、ほんときつかそうに、参つて来ておられた、分かられたんでしょう、参つておられなかつたから、解らなかつたんでしょう、今朝の今朝の御理解のことです、いいよんなさる、もう本当に今朝から夢の中に夢とも現とも解りませんけれどもです、内田の家の霊様達が集まつて、熱いお茶を頂きながら喜んでおられる、その周囲に沢山な、どこの霊か解らんけれども、円心を書いて御霊様がもう喜びいつ杯で熱いお茶を頂いてたり、冷たいお水を頂いたりして喜びお得ておられるようなのを、それを夢ともうつつともわからんなりに頂いておる。
私が今朝から皆さんに聞いて頂きました、ね、実は昨日の私のお夜食のお供えを、しなさつたのは内田さんだつたんですよ、沢山今朝の朝の御祈念に、お供えしとつただけ、私どんが10人ぐらい、みんな、色々様々ね、お寿司がありゃ天ぷらもあるね、しな料理風な物があれば、色んな物を二はちにして、あの私がいつも霊様の「わ」する時必ずお夜食を頂くんですね、けども此の前から私は自分で、お夜食を頂くことをやめましてね、それを昨日やめましてねそれを昨日まあ言うなら、沢山な、どこの次郎やら太郎やら、まあ佛教的に云うなら本当に餓鬼道に落ちておると云うような人達までがです、合楽のお祭りに縋つて見える、こりゃ日頃お願いさして頂きよるからね、その人達に熱いお茶のー杯も冷たいお水のー杯もと思いを込めて昨日12時きつかりに私がお供えをさして頂いた、その内田さんが今日の御理解頂いてないから知るよしもないでしょうがね、けれども、そんなら内田さん今日の御理解頂くと解るけれども実を言つたら本当に有り難いことねと、私は昨日神様にお礼さして頂いて今日の霊様の事をお願いさして頂いておりましたら、赤い朱塗りのお盆を真赤な朱塗りのお盆です、それで、どうぞどうぞと言うてお替わりをする時、お盆をこう差し出すでしょうね、そのお盆がようして、お替わりをどうぞお替わりをどうぞと言うておる所を頂いてから、どういう事だろうかと思うた、ね、そしたら赤い心を頂いた、赤いですね赤い心と言うことは真心と言うことなんですね、もう真心に勝つものはありません、真心一つありゃ人が助かるとさえおつしゃる、真心は、真心さえありゃ自分が助かる、願うても願うてもおかげが頂けない時には、自分の真の真心がかげたと悟れ、と仰つしゃるね、そう言う尊い働きをするのが真心である、ね、それこそ内田さんの、ほんなら現在の状態でですね、もう、それこそたびたび、こんな事しなくてもと思うけれども、もう本当にーつーつにそのこりゃ、あちらの小母ちゃんが作つたじゃろうかね、と私は頂くとき頂いて、もう本当にお腹が見事な若い人に向くように年寄りに向くようにね、固い物がある柔らかい物がある、色々もう本当にそのふたふさ揃えてからの、いわゆる食べ物だね、いうならばお供えである、本当に真心がー杯である、ね、そういう例えば真心の物をです、ね内田さんは私にお供えをなさつた、私が御祈念にかかる前にお夜食をして、いつものように頂いてもらおうと云うのである、そこで私はお夜食を頂かずに霊様に今日今晩の御霊様達に、お供えをしてという内田さんの真心を、私の真心とが一つになつておる、そう言う例えばね、お供えであるなら、皆さんが例えば今日真心込めて、ほんとのボタ餅なら、ボタ餅をお供えなさつたね、内の先祖は辛いものが好きだつたからと云うて、辛いもんの、お供えをなさつたね、今日、今朝から申しますように、どれだけのどれだけの、どこの、それこそ次郎やら太郎やら解らない、いわゆる無縁仏というか、もう、あとをその先祖を見ることを、耐えていると云つたような、又あつても先祖のことは全然かまわないといつたような霊達がです、もう、どれだけの数、縋りを求めて今日の合楽の、お祭りを待つておられたか分からない、もう昨日私はこの大きなジャンボ茶碗がありますね、あれに冷たいお水と熱い番茶をたぎらしたように濃いいお茶を出して、もうそれは形では、こんなですけど、それはもう云うなら御霊様の世界ではどれほど大きいか分からないほどしの、その水に、お茶にどれだけの人の無縁の霊達が縋つて、そしてそこで、息を入れると云うか本当に此で生きがえつたというような働きをね、あの見せて頂く姿を見るとです、いよいよ私が力を受けなければいけないな、そしてこういう霊達が今日だけでない、いつもね喜びの霊として助かれるような、なんとか道はつけてあげられないものだろうか安心の御霊として。
道をつけてあげたにしましてもね、それこそ皆さんが聞いておるばつかりの様に実行なさらずに、おかげを受けられないなら、であるように本当にそれを解らせて本当におかげを頂かせれると云う事とは、力が欲しいな力がいるなと云うことなんであります。
私は本当に素晴らしいと思つつた事はね、ならもう皆さんが、例えばお重箱2段ならお重箱2段のならお寿司を1段ぼた餅を一段とお供え、なさつたならです、そのお寿司はもう真心であるならばね、もうなんぼ、どれほど、お替わりをしてあげても、よいほどしのもの、そういう働きが神様の世界、御霊の世界にあるとですよ、人間の真心と云うものね、本当に、だからね、あの真心込めなければならない事が分かりますね、ね、これは例えば50なら50のぼた餅でも、それがもう500、1000どころではない、なんぼでも、なんぼでも、そのぼた餅をお替わりして、そして日頃は苦しみの霊、迷いの霊達にもです、供養してあげられると云う事が素晴らしい事なんですよ、真心と云うのはそんなもんですね。
内田さんの今朝のお夢とも、それこそ、うつつとも分からないけれども現れておる、いわゆる内田さんとこの霊様を中心に沢山の霊達が、そのいつ杯のお茶にお水に潤うておる喜びいつ杯のその表情を見せて頂いておりました、こないだも、ちいうて私も聞きながら涙がこぼれた、昨夜から私が感じている事、今朝から皆さんにお話しをした事、しかもそのお供えは内田さんじゃつた、成程、内田さんの霊様が、それこそ銀杏の葉のように肩を、こうしちょつてよかろうと思うたね、もうそれこそ霊様達は時に、お父さんの霊様なんか、もう人にやりすぎで、やりすぎで、溜まらん方だつたかつたからですね、さあ-誰もこんの、彼もこんの、さあ飲みなさい頂きなさいと云うてですね、それこそ霊様が悦に入つて、おられるのを、まの当たりに見るような思いがです、内田さんのその立ち話で聞かせて頂いたお話しの中から感ずるじゃないですか、今朝私が皆さんに聞いて頂いた事を、それを裏ずけをしておるじゃないですかね、私は最近読ませて頂いて、どげんなつたか、ところどころ読んで、あの手の音楽、東京に霊友会という宗教団体があります、新興宗教、そこのみきさんという方が今日亡くなつております、ほらもう、沢山の久留米にも支部があるようですが霊友会といえば、沢山の人が助かる、それがもう徹頭徹尾言うておられる事は、どういうことかと言うとね、先祖の供養さえすりゃ運命が開ける先祖の供養さえすりゃ病気が直る、そこでなおランなら、まあだ先祖の供養が足りんのだと、お経を10巻上げよつたのを50巻上げなさい、1日中、お経を上げ続けなさいね、それで助かる霊が助からんなら、まあだお経の上げよが足らんとじゃやと言うて、その後先祖を供養すると言うことだ、ありゃお経と言うことは御理解なんですよね、バイブルだつて同じですように、お釈迦様が解かれた、沢山の、どれだけあるか分からん程しの、例えば観音経とか法華経とか云う、そのお釈迦さんの信心の段階を追うて、その法則を説かれたり心理を説かれたり又は優しい例え、たとえ話して、人が助かつて行く事の為のお話しがごにゃ、ごにゃ、ごにゃとあるが、あつちん言葉で云うけん、あげんなるとですよ、ね、ですから、成程、それを10巻も20巻もそれこそ毎日毎日上げるならです、しかもー心不乱になつてから、隣近所も迷惑、それこそもう問題です、内の霊様さえ助かりゃりゃよかちゅうて、それで助かるち助からんなら、まだお経の上げようが足らんのだと言うことです、事実助かつている、おられる事実、それだけ沢山の信者を用意しておられると云う事実がですね、ある所から見ていかに?せんことがでね、そしておかげ頂かんなら、まあだ、今日の御理解で云うなら真心がたらんと、分からにゃいかんのです、ね、ただ朝晩ね奉仕をしております、お茶を上げよりますおふろばん、時々は好きなもんも上げよります、じゃなか、本当に私共が合楽で頂くその御理解をですね、だから御理解を聞かせよります、そんならテープをかつていつて御霊様の前でじゃんじゃん掛けたならよかろうち、ところが、それじゃ霊さんが聞きなさらんから不思議ですよ、皆さんが朝の御理解で頂く御理解とテープで頂く御理解というのは全然値打ちが違うんですよ、ですから皆さん自身もですその御理解を頂いて、その御理解と例えば、ならおかげの泉なら、おかげの泉を、ありゃ、もうひとつの教典と同じですから自分が成程と思うた所をー節ずつでもいいから御霊様の前で、それこそ朗々と私は祖先讃辞をあげるようにあまつ祝詞を上げるように、読ませて頂いたら、それも繰り返し繰り返し読ませて頂いておつたら霊様が悟りを開くというか、分かると云うか助かる道に出ることが出来ると云う事につながるのですよね、金光様の御信心をさして頂いておればですね、段々おかげを頂いて助かつて来ると云う事は自分の心が助かつて来ると云うことですよね、此は例えば霊友会のこの本を読む、もうどれ程出てくるか分からないけれども、もう死んでしまいなさつてから自分の大恩師、大恩師と云う言葉を使つておられますけれどもですね、もうあげな師匠はもう死んだほうが良かろう、あげな奴は死んだほうが良かろう、とそう言う言葉で表現しておられます、だからいかに心が穏やかでないかが分かりますね、唯、先祖様に供養すると言うことだけでは成程先祖様は助かられるかも知れんけれども、こちらは助からん事が分かります、矢張り日本語できかにゃ分からんね、それを私共がおみちの信心によつて、和らぎ喜ぶ心を頂かせて頂くところのですね、信心に焦点をおけば、まあ霊様は大事にしなければ、おられない事になつて来るしね、自分の心に不安もない心配もないと云う心の状態が。開けてくる、そう言う助かりを持つて私の言つておる所の助かりね、だから先祖様だけは大事にすりゃ病気が直るといつたような信心では私はいけないとこう思うね、皆さんの信心の場合はです信心が分かれば分かるほどですね、霊様へでも真の限りを尽くさしてもらわなければおられない心が生まれてくるから霊様も喜びなさりゃ天地の親神様も喜びなさる、私自身の心も救われてくると言うおかげにならなければ駄目です、本当にね、私がね、おかげがなかつた時に、お金が欲しいと思うた、ここに、いくらあるならばとこう思うた、たぶん、そう云う実感を持つてですね、私共が今、力が欲しい、力が欲しいと自分で思うておりますけれどもねその力が欲しいならばね、ああしてこうせにゃいけんと、そこん所を分からして頂いてね、60のお徳を受けていかにゃいかん、6と云う事はお徳と云う事ね、その力を頂かなければ人間の幸せはないんだとね、あらゆる宗教宗派の方達が言つとる助かりの道は色々あろう、けども、それで助かつただけでは自分自身が助かるという事までには、つながらない、そこで宗教改革と云うような言葉を持つて私が言う、そう言う方達も、なら霊友会なら霊友会の方達にでもです、先祖様を大事にする事は結構ですけれども自分の心を、もつと本気で大事にする道を教祖金光大神は教えられたのですからね、そこから生まれてくる和賀心には、いやがうえにも、おかげは、ともうてくる、先祖様も助かつて下さる、というような根本的な所をね、私は皆さんに聞いて頂いておる、まあ、それは繰り返し繰り返し申しておることでございますからね、皆さんがその気にならなければ矢張りね、合楽の信心が例えば素晴らしいというても、それを身に付けなかつたら、素晴らしい事にはならんのではないでしょうか、今日はこうして霊様の大祭で今朝から皆さんに聞いて頂いた事、昨夜から神様から頂いたこと、成程、真、真心と云うものはね赤い心と云うものが、どれほど神様を動かすか霊様に喜んでもらえるかと云う事をですね、私は今朝、皆さんにです、そんなら自分方の霊様の前でね、はあ、あの人が好きだからボタ餅をこうお供えしよう、お酒もお供えしよう、それは、成程霊様は喜ばれましょうね、真心いつ杯ですから、けれども、それではね、それでは、お替わりをすると云う事にはならないのですね唯、自分さへ助かれば良いと云うのではなくです、それこそ、その国々に沢山の助からなければならない人が、例えばある霊様があるのですからね、その人達までが助かることの為に教会に出てこなければいけん、お取り次ぎを頂かなければならない、教会での、例えばこういつた春秋の二回の霊様のお祭りにはです、真心込めたお供えをさしてもらわなければならない、それであつて、初めてお替わりが出来る、皆さん、もう本当に秋はもう、我田引水で言いよるとではないです、それを本当に実感します、今日可愛にもつて来て、お供えしたのはです、それがね、唯あのけいはくの、ものであつてはならんけれども、本当に思いを込めて、真心込めて持て来るならばです、ー升の酒はもうー石にも、言やもう限りない御神酒になるのです、そこに集まつて欲しいと云う霊様達に全部供養が出来るのですね、この甘いものは唯、重箱ー段けれども、真心込めて作らして頂いた、それがです、もう限りない、どうぞどうぞと、お替わりをしてその霊様に上げられるほどしのおかげと、そういう働きの中にです、私どもが生活していくと云うことが、お道の信心なんですね、私だけではいかん、そん為には私が助からねば私が力を頂かなければ、そう言う人達にもですね、もちつと、ああもしてあげたい、こうもしてあげたい、と思うても力なしに出来はいたしません。そこで力が欲しいと云うことになるのですね、どうぞ昨日、一昨日頂きましたね、本当に私どもがね、3を10にすれば30になると云う計算をしてみて30になつたら30になつたと、ほんなら先生はそれを、もういつちょ2倍にせろ、それを、もういつちょ倍にせろ、したらいくつになるかね60になりますね、そういうふうにしなければろくは、頂けんぞ、ろくというのは、禄高という事ですね、鍋島さんの何千石、何万石とかいう禄高のこと、徳のことね、こうしてこうすりゃお徳が受けられるという、しかも決してむずかしいじゃない、今の計算のように、見やすい事、こちらが計算しようと思えばね、それを実行もせずね、それを唯、聞いただけです、唯、唯、幾らになるの、幾つになるの、ちいうたつちゃ、計算しよらん、頭の中で働かしよらん、それでこうやると、30になりますと、ようやく言い寄る、ほんなら、それを倍にすなら、幾つのというと、もう、そげなややかしい計算はしゅうごとなか、そりゃもう力まで受けんでよかちゅうごたる顔をしちょる、ね、その力を頂かなければ自分が幸せになれない、人も幸せになれない。
霊様に、も、なんぼでもね、お替わりをしてあげられるほどしの、おかげを頂くために力が欲しいと、いう私は実感をね、皆さんが感じて下さる程しの信心になつたら少しは信心意欲が出てくるのじゃないかと思うのですね、矢張り意欲が出てこなければダメです何でも勉強でもそうです、ね、勉強しよると段々意欲が出てくる、身に着いてくるとが楽しゆうなつて来る、信心でも同じこと、自分の身に付いてくる血になる肉になる、それが自分で感じられる、そして今まで、こんなもんは持てなかつたのが、持てれると云う力をです、有り難いこつちゃな~これが力というもんだろうかと云うもんだろうかと云うところにです、楽しませて、それで、いよいよもつと力が欲しいな~と云うことになるのです、皆さんどうぞ力を受けなさらなければね、出来ません、今度、四月一日、先程、放送があつておりました、今日、月次祭に合わせて、もう開教当時からあの御本部からの通知だけは受けとつたのです、勧学祭というお祭りをするようにということ、学の勧めということですねけれども私はあまり気のりがしなかつた、所が今度たまたま、まるしょうが結成して5周年になるという、なんか記念行事を、あの人達なりで、まあー生懸命やつております色々と準備をでその勧学際に行事の中にまるしょうの行事もふくめられておるわけです、勿論それは月次祭に合わせてからのことでございます、たしか大祭なみに10時半からでしょう、お祭りは10時半からでしょう、10時半からのお祭りでございますから、あのそのつもりで小学中学高校大学又は予備校なんかに行つておられる、兎に角、学の進め、その事を願うね、教祖様のお言葉の中にもね、知恵が付くように勉強が出来ない子は勉強が出来るように願うといつた様な意味の言葉が皆さんにご通知差し上げた中に確か、あの教祖様の言葉が出ておるはずですね、ですから、そういう所からの勧学祭というのが、あ、使えられる事になつた訳でございますけど、あの唯、夜が昼になつただけでございまして、その月次祭に合わせてからの事でございますから、どうぞ、その日は、そんなわけですから、その先生さん方、大勢それから新たに小学とか中学とか新たな学校へ進学された方達だけは玉串を上げて頂くようになつておりますから、そりゃ是非、勧学祭にお参りさしてもろうて、これからの勧学祭の進めということの上にも、いわゆる「うち分別が」発動して行く事を願えといつておりますから、それをお願いする祈願のいわゆるお祭りでございますから、どうぞ宜しくお願いします。おわり